部落差別は、今 ~TUBAME-JIROのブログ~

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「部落民が差別と言えば、なんでも差別」と歪曲された「朝田理論」 ~部落問題の基礎知識④~

1、「部落民以外はすべて差別者」「解放同盟が差別と言えば、何でも差別」とデマを流し続けた日本共産党

部落民以外はすべて差別者」→「解放同盟が差別と言えば何でも差別」→「糾弾(暴力・リンチ)」→「同和利権」=「だから、部落差別がある」】

 そう叫んでいる人たちがいる。

「部落差別解消推進法」の法案審議では共産党だけが反対していた。そこでは「解放同盟は『部落民以外はすべて差別者』『部落排外主義』で反対勢力を組織から排除し『窓口一本化』で行政から『利権を独占』するため暴行・監禁など無法な「糾弾」闘争で、県市町村など自治体を好き勝手動かした。」と言う。

彼らの主張を鵜呑みにして、ネット上では「『解放同盟』=糾弾=暴力リンチ」「なんでも差別だ~!糾弾だ!」と言っている悪い奴らだと、必死で叫んでいる人たちがいた。ネット上の一方的な情報や共産党の主張だけを鵜呑みにして、その主張を正義感を持って語っている人たち。

「ウソも100回言えば、本当になる」とのヒットラー式の大量デマ宣伝、ネーム・コーリングを見事に体現しているなぁと思った。ネット社会の怖さ、情報発信の必要性を改めて感じた。

 そこでは、下記のようなことが主に語られている。

①「部落民以外はすべて差別者・・・」(共産党の言い方)

②「部落・部落民にとって不利益な問題は一切差別である」

⇒「解放同盟が差別だと言えば、なんでも差別。そして糾弾」(共産党の言い方)

 

2,「部落・部落民にとって不利益な問題は一切差別」(朝田理論)とは?

 ほんとに、当時の解放同盟は、そんな主張していたの?これは40年以上前の理論であり、当時の議論を確認するため『部落解放理論の根本問題-日本共産党の政策・理論批判』(大賀正行、解放出版社、1977年)を読んでみた。

すると、いかに共産党が自分たちの都合のいいように解釈し、40年以上も差別デマを流し続けてきたのか、あらためて実感した。

簡単に言うと、50年前、差別問題を単なる個人の差別意識・観念の問題(「心理的差別」)として捉えるのではなく、「実態的差別」の現実にも現れているということを、部落大衆に分かり易く言った理論。

50年前の当時、差別を個人の行為レベルとして捉らえていたものを、「差別と貧困の悪循環によって、部落の人たちの生活権、教育権等が侵害されている」と社会科学的に認識を転換し、解放運動を展開するようになったということ。

部落の人たちが差別と貧困の悪循環によって、劣悪な住環境や長欠・不就学、低学歴と不安定就労などに置かれている実態は、単なる個人の問題でなく、部落差別の結果なのだと。

そのように「差別のとらえ方」を発展させた解放理論だった。そうして、それらの劣悪な環境改善等の「生活要求闘争」に取り組む事で、差別によって奪われた権利を、自ら取り戻す自覚的な解放運動、大衆団体として展開しっていった。

この解放理論が、1965年「同和対策審議会」答申に、「心理的差別」と「実態的差別」という内容に反映され、これら差別の実態放置に対する行政責任が明記されていった。

これが50年前の「部落にとって、部落民にとって、不利益な問題は一切差別である」という朝田理論の命題の一つ。

この命題を、「解放同盟幹部の胸先三寸で、差別だと決まる」、というようなデマを大々的に流しつつづけたのが共産党であり、部落民や部落解放運動に対する差別と偏見を扇動し続けた罪は大きい。

 

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以下、上記の本より一部抜粋。

『部落解放理論の根本問題-日本共産党の政策・理論批判』
(大賀正行、解放出版社、1977年) 

【「部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」と規定した第12回全国大会(1957年)の命題について 

日共宮本一派は、これをなんでも気にいらないものをすべて差別だとするかってな理論だと中傷する。わが同盟の主張は、部落にとって、部落民にとって不利益な問題が、けっして偶然に起こっているのではなく、部落の具体的な歴史的、社会的関係から生まれた部落差別とかならず結びついていることを明らかにしたものである。

部落民に対する直接的な差別だけが差別ではない。部落民が生活のあらゆる面、就職、結婚、教育、居住等々でうけているすべての不利益が部落差別である。】(P25)

【この命題は、1951年のオールロマンス事件を契機として行政闘争を通じ、この行政闘争が第12回大会の命題として定式化されたものである。したがって、第12回大会の命題は、差別は、個々の差別事象だけでなく、部落大衆の日常生活の中に、日常生起する問題で不利益な問題の中にあることを教えた。

すなわち、部落大衆の仕事がない、生活が貧困である、教育水準が低い、文化水準が低い、生活環境が悪い等の部落民にとって不利益な様々の問題が、実は差別の結果であり、あらわれであり、しかも差別の原因になっていることを明らかにした。

したがって、この命題は、部落民にとって不利益な問題は差別の本質からきている。差別として捉えるということである。

同時に大衆の要求(家が欲しい、職が欲しい等々)を功利主義的に捉えるのではなく、大衆の要求=不利益な問題は、差別の具体的あらわれであり、これを明確に理論づけ、差別があるからこそ要求が出てくるんだということを大衆に自覚させ、しかも万人に納得いくように説明せよということを要求しているのである(p63)】

 

参考1「戦後の部落解放運動の再建と闘い」
1945.10. 1 全国水平社の幹部を中心に再建協議
1946. 2.19 部落解放全国委員会結成 翌日:部落解放人民大会開催
1951.10.19 オールロマンス差別事件 → 差別行政糾弾闘争
      『差別観念は部落民の差別された実態の反映』
1953. 5. 6 全国同和教育研究協議会結成 翌日:第1回全同教大会
1955. 8.27 部落解放全国委員会第10回大会 部落解放同盟に改称
1957.12. 5 部落解放同盟第12回大会 国策樹立運動の方針
部落民にとって部落にとって不利益な問題はいっさい差別である』


1971. 3. 1 部落解放同盟第26回大会『「三つの命題」にもとづく認識』
命題① 
部落差別の本質

部落民が市民的権利の中でも、就職の機会均等の権利を行政的に不完全にしか保障されていない、すなわち、部落民は、差別によって主要な生産関係から除外されているということである。これが差別のただ一つの本質である」


命題② 部落差別の社会的存在意義

部落民労働市場の底辺を支えさせ、一般勤労者の低賃金、低生活のしずめとしての役割を果たさせ、政治的には部落差別を温存助長することによって、部落民と一般勤労者とを対立させる分裂支配の役割をもたされている」


命題③ 社会意識としての部落民にたいする差別観念

「その差別の本質に照応して、日常生活化した伝統の力と教育とによって、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的には空気を吸うように一般大衆の意識のなかに入り込んでいる」

 

参考2「朝田理論について、ある先輩からのコメント」

社会科学の視点で部落差別をとらえた

第12回大会で出された「日常部落に生起する問題で、部落にとって部落民にとつて不利益な問題は一切差別である」というテーゼを、「解放同盟が差別と言えば何でも差別」と一方的に批判する日共の主張は、「社会科学が全く理解できていない」ということを自ら露呈しているだけのものです。

「日常起こる問題には、すべて社会的背景がある」ととらえることは、社会科学では当然のことです。

例えば、原発事故を「想定外」ととらえるが、そこには、「安全神話」をばらまきながら、コストを削減し利益を上げるために、一切の安全を検討してこなかった東電の責任、そしてそうした体質を生む利益中心の社会があると要因を深く追求していかなければ問題の本質はつかめないし、解決の方策も見出すことはできません。

当時、「部落民が競馬で負けてすっからかんになっても、それは差別なのか」と揶揄する言葉も赤旗に掲載されました。しかし、その人がなぜ競馬に手を出したのか、平日に仕事もしないで競馬に行っていたとしたら、そこに何があったのかと考えていくと、例えば、仕事につけない理由があった、競馬でしかお金を稼ぐことができない事情があったかもしれないと、背景が浮かび上がってきます。

私が、確認糾弾会に参加していた時に忘れられないやり取りがあります。当時の支部書記長が、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも差別かと批判されるが、まさしく差別だ」と言い切られたのです。参加していた私もあまりの言葉に、何を言い出されるのかと思いましたが、引き続いて、「部落に入ってくる道路の電信柱をよく見ろ。地区の直前までコンクリートの高い電信柱だが、地区に入った途端、木製の低いものになる。なぜなら、部落の家は平屋か中二階で、高い電信柱が必要ないからだ。それを見て、私たちは悔しい思いをしてきた。郵便ポストは、部落の中に一つしかない。しかも、回収に来られたら一通も入っていない。赤い郵便ポストがあってもそれを使うことができない我々にとっては、あの赤さも悔しい対象なのだ」と言葉を続けられたのです。

「ためにせんがため」の屁理屈ではなく、部落大衆にわかりやすく、社会科学的な見方・考え方を伝えようとした当時の部落解放運動のリーダーたちの思いを、受け止められなくて何が「民衆のために党」なのかと私は思い続けています。

 

「主要な生産関係から除外」

 確かに「主要な生産関係から除外」ということは、社会科学が明らかにしている「相対的過剰人口=失業者」として位置づけられてきたこと、つまり今でいう「非正規雇用」「日雇い」としてしか多くの部落大衆が働けなかったことを示しています。

そうした「非正規・低賃金労働」の状態が、「正規雇用者」の賃金や労働条件を低下させる「しずめ」の役割を担わされたこと。そして、「積極的な雇用」を企業に求めても、「実力」を盾になかなか門戸が開かれない中で、行政が公務員といっても主に「現業部門」に雇用したこと。

また当時やそれ以前は、塵芥処理やし尿処理といった現業部門の仕事は大変な重労働で労働条件が極めて過酷なものであったために、一般公募してもなかなか就労者がいないという現実がありました。

それが、「優先雇用」などと言う言葉で非難されだしたのは、労働条件が改善されてきたうえに、不況で企業就職が困難になり「公務員志向」が増加してきた中で、人々の「経過に対する無知」を利用して、「劣情」を煽り立ててきただけ。ですから、この国で真の「アファーマティブアクション」など行われなかったとも思っています。