先日、解放運動の活動家の先輩がなくなった。その地域で、たった数世帯でも解放同盟員として、部落解放のために、最後までがんばってきた先輩だった。
ボクの住んでいるところは、解放運動が弱い地域だ。だから、葬儀の度に弔電と花束の名前に、解放同盟や人権関係団体の名前を入れるかどうか悩む。
親はバリバリの活動家でも残された遺族が喪主となり、葬儀がおこなわれる。子どもや家族、その友人や職場の上司なども参列している。それらの親族が、職場の上司や連れ合い、子どもなどに部落出身であることを言ってないケースもあるからだ。
悔しいかったけど、ある時は、解放同盟の支部長などが全員個人名で弔電を出したこともあった。
ボクの祖父が死んだとき、解放運動団体から花束と弔電がきた。
参列者の多くは祖父のきょうだいや、親戚たち。つまり部落の人たちだ。
でも、みんな部落を出て、隠して生きていた。そこに「部落解放・・・」と書かれた生花と弔電がたくさん届いた。
葬儀の時、弔電が紹介される。「部落・・・」という言葉が出るたびに、参列している叔父叔母やその家族たちが、みんな少し緊張しているのが、ボクにも伝わってきた。ボクもドキドキしていた。
でも、実は、みんな心では、その弔電を喜んでいた。多くの仲間たちからの弔電と生花。
火葬場から祖父の遺骨を持ち帰り、みんなで食事をした。
その時、親戚のおじさん、おばさんたちが初めて部落の話をボクにしてくれた。
語らなかったんじゃない。何十年も、部落の事を語れずに、差別社会の中で、「自分さえしっかりしていれば」と必死で生きていた。隠しながらも、胸を張り生きていた。
ボクのおじいちゃんも、差別のなか、いろんな苦労の中、生きてきたことを教えてもらった。部落差別のことは、一切語らなかった祖父。
こんな、ボクのおじいちゃんや、叔父叔母たちの声は、きっと「実態調査」には集約されていない。
「差別なんかもうない」と言われ、「同和利権」のために、糾弾(暴力・リンチ)=「同和は怖い」という、世間の差別のまなざしに苦しめられている人がいる。ふるさとを捨て、都会へ行き、世間に同化して生きている人たちがたくさんいる。
部落差別って、露骨な差別事件だけが、差別じゃない。
普段のささいな生活の中で、当事者はその出自に揺れながら、生きている。葬儀という人生最後の時にも、「部落問題」が顔を出してくる。
差別が「ない」のではない。
「ある」のに「ない」ことになっているだけ。
「いる」のに「いない」ことにさせられているだけ。