大阪・日之出の教科書無償化闘争
教科書無償闘争と言えば、高知・長浜の闘いが国を動かす決定的な闘いとなった。しかし、実は、その前段として京都・大阪の闘いがあったことは、あまり知られてない。
当時、20代だった部落の青年たちが差別と貧困により、教科書すら買えず、給食代を持って行けない部落の子どもたちが、教員から「給食代を忘れた子」とプラカードを首から下げられ、運動場を走らされていた。
そして、子どもたち自身も教育闘争に立ち上がり、やがては教科書無償化を勝ち取る。
絵本作家として有名な長谷川義史さんは、大阪・日之出の部落の聞き取りを元に『おたまさんのおかいさん』(解放出版社、2002年)を出版し、講談社の絵本賞を受賞した。
その「後書き」に、しっかりと、日之出の教育闘争が書かれている。
同和教育とは、部落問題学習だけではない。差別と貧困によって奪われた子どもたちの教育権を奪い返す、保障するための闘いだったこと忘れてはいけない。
以下は、「おたまさんのおかさいん」の資料編より一部抜粋
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子ども会ができた
1954(昭和29)年、日之出の少年会(子ども会の前身)の活動が始まりました。当時まだ高校2年生の、おたまさんの孫の大賀正行さんや、北井浩一さんらが、始めました。
「そうや、ぼくらは町の希望の灯なんや。それを消したらアカン、つけた限り大きな灯になるよう育てなアカンのや」と相談。ムラの子らを集め、ラジオ体操、夏休みの宿題指導、ピクニック、クリスマス会、文庫の作成、夜回り、卓球など、いろんな活動をしました。
プラカード事件
1959(昭和34)年のある日、小学生が泣いて帰ってきました。給食代やPTA会費を学校に持っていかないと、「給食代忘れた子」「宿題忘れた子」などのプラカードを胸にかけて、運動場を走らされたというのです。
親の少ない収入では教科書も学用品も買えないこと、狭い家では勉強したくてもできない現実のくやしさを話しました。驚き憤った青年たちは、「ムラの子どもはこれでいいのか」と親たちを説得し、学校と話し合って先生方にも事情をわかってもらいました。そして、ほかのムラの人びとや先生とも一緒になって、大阪市教育委員会と交渉しました。
小学生も参加し、「学校での差別をやめてほしい。勉強でように本や学用品、給食代をください。」と訴えました。
このような運動は、西日本のあちこちのムラからも起こり、やがてうねりは政府を動かし、1963(昭和38)年に全国の小、中学生の教科書を無償で配布させたのです。
このことは、「義務教育を無償とする」憲法第26条を実現させる第一歩にほかなりませんでした。
教育闘争の歌 作詞・日之出子ども会(「練監ブルース」の替え歌で)
1.おれは学校へ行きたいが 給食代が待っている
もしも払わずいるならば 先生やみんなの目が光る
2.うちの父ちゃん靴直し うちの母ちゃん日雇いで
だからおいらはいつまでも 差別と貧乏で日を送る
3.これじゃいけないとおれたちは みんなで話して考えた
みんなが団結したならば 差別や貧乏はこわくない
参考:絵本『おたまさんのおかいさん』(長谷川義史、2002年、解放出版社)