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部落差別は、今 ~TUBAME-JIROのブログ~

当事者の声、マイノリティの視点、差別の現実を踏まえた情報発信をしています。

知ってる?「八鹿高校事件」の深層!(本編)~部落問題の基礎知識③~

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八鹿高校事件の友人の投稿で、紹介されていた本。著者の秋山良さんに、許可をもらったので、本文の八鹿高校差別事件のところを、一部抜粋して紹介させていいだきます。

詳細は、ぜひ本書を購入して読んでください。矢田教育差別事件の事も書かれています。

かなり長いですが、読み応えがあります。前回の投稿(部落問題の基礎知識②)を読んで、この記事を読めば、八鹿高校差別事件の「真実」が見えてくると思います。

 

※参考(一部抜粋)

『「同和利権の真相」の深層』(解放出版社、2004年)より、

「『真相』なるものが覆い隠した真実ー同和教育をめぐってー」

 

 《それでも地球は回っているー八鹿高校差別教育事件―》

 

◆なぜ「事件」が起こったのかを見ずして

「この日、病院に入院された先生がいることは確かである。事実をもみ消すことはできない。しかし、この22日のことだけに焦点をおいて考えることが正しいことなのだろうか。座り込み、断食を行った21人の生徒の中の1人として私は先生達の醜さ、きたなさ、そして差別性を見てきた中で、とても許されないことだと思う。私たちがどうしてここまでやったか。そしてやらなければならなかったのか。…」】

これは、八鹿高校生徒自治会発行の生徒文集『11.22その日』に掲載された生徒の手記である。

「高校の先生70人に血の集団リンチ」「気絶…水かけ、また殴る 63歳の女教師にも」と『赤旗』で扇動的報道がなされたいわゆる「八鹿高校事件」。

『真相1』では、「校内に部落解放研究会の設置を認めなかった八鹿高校の教師68人に対して、解放同盟兵庫県連メンバー数百人が襲いかかり、13時間にわたって『糾弾』と称して集団リンチを加えた。これにより56人が重軽傷を負い、29人が入院したという教育史上例をみない事件である。」(p131)と記されている。

まずは人数や時間など大いなる誇張があることはさておいても、なるほどこれだけ読めば、「いかにも…」と思える記述だ。

しかし、生徒の手記にあるように、なぜ「けが人の出る事件」が起こったのか、前提となる「なぜ教師は、解放研を認めなかったのか」、さらには「そもそもなぜ生徒は解放研をつくったのか」、そのことを抜きにしてことを語ることはできないし、それを明らかにすることこそが、ジャーナリストの努めであろう。

すでに、この事件の真相については多くの場で明らかにされており、ここで改めて紙面を割いて詳細を述べる必要はないと思われる。

しかし、今なお『真相』の編著者たちが、あえてこうした形で事件を取り上げることに対して、少なくとも次の3点、

「当日、起こった事実はなんだったのか」
「生徒はなぜ解放研を立ち上げたのか」
「教師はなぜ頑なに拒否したのか」

と遡る形で、前述の生徒の手記や裁判の中で提出された生徒の上申書という当事者の声をもとに振り返っておきたい。

 

◆当日、何が起こったのか

 1974年11月22日、前夜、高教組が手配した城崎町の旅館で集団宿泊をさせられ、脱落を許さない「指導」を受けた八鹿高校教師約60人は、登校するなり一斉に年休届けを提出、各教室で生徒に「授業はない」と告げ、3列縦隊になってスクラムを組んで下校した。

 

職員室の前では、解放研に所属する生徒たちを中心に21人の子どもたちが、前日からハンストに入り、何も食べないまま泊まり込んでいた。その子どもたちをまたぐようにして、教師たちは下校していった。しかも、翌日からは連休である。そのときの様子を生徒はこう語っている。

「21日4時から断食に入り翌日、教師達が最初から職員室に土足で入り荷物をまとめて、各教室で〝授業はない〟と告げ、生徒を帰らすようにし、そして〝これから校門あたりで何がおきるかよく見ておけ〟といって学校を出ていった教師が許せるだろうか!

次の日から連休で、年休届まで出して私たち断食している生徒を見すて、職場まで放棄した教師達の態度に怒らずにおれるのだろうか。」

こうした教師の行動を察した当時の解放同盟の地元支部長は、駆けつけるなり、列の前に両手を広げて立ちはだかったが、果たせず引きずられることとなった。

さらに駆けつけた校長、教育委員会、育友会関係者などの制止も聞かず、列はさらに前進。

連絡を受けてやってきた解放同盟員(その中心にいたのは、ハンストに参加している生徒の保護者であった)に取り囲まれた教師たちはその場にスクラムを組んで座り込んだ。

「子どもたちを見捨てるのか」「殺すのか」との叫びにいっさい耳を貸さない教師たちに対して、解放同盟員たちは教師をごぼう抜きにして、47人を学校へと連れ戻した。(残りの十数人の教師はその場からいなくなった。)その際、裁判所がいう「有形力の行使」があったことは事実である。

学校に戻った教師に対して、解放同盟側は数名ずつでそれぞれに抗議と説得、つまり糾弾を始めた。

多くの人々が、自分の生い立ちや思いを必死に語ったのだが、いっさい聞こうともしない、受け入れようともしない教師たちがいた。

そうした頑なな教師の態度に対して、たまりかねたごく一部のものが「暴力的行為」に及んだことも認められる。しかし、それとて、解放同盟婦人部によってすぐさま制止されている。

したがって、裁判の過程で最終的に43名の教師が何らかの負傷をしたと認定されているが、結局判決の中では、告訴された13名の誰が誰に対して、どのような「暴力」を加えたのか、ほとんど明らかにされないまま、ただ「共同正犯」として「有罪」が下されているのである。

これが、裁判の過程でも明らかになった当日の経緯である。

少なくとも、当時、『赤旗』等々の共産党機関紙が書き立てた「血ぬられた高校体育館」「水をかけられてずぶぬれになった男女の教師をむりやり裸に」「バスケットボールのボードの支柱にぶら下がったゴムチューブ、ここで逆さづりの拷問?」などという事実はいっさいなかった。しかし、彼らは、こうした「誤報に対する訂正記事」さえ、いまだ出してはいない。

 

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◆「私が一番よく知っている」と交際を絶つ

 では、そもそもの発端となった解放研をなぜ八鹿高校の生徒たちは結成したのだろうか。

この年の1月、県の幹部職員による差別文書事件が発覚する。これは、当時、八鹿高校3年生であった女子生徒とつきあっていた息子に交際をやめるように述べたものであった。理由は、女子生徒が被差別部落出身であることであった。

息子の父親は、同和行政を推進する立場にあったにもかかわらず「同和行政を口に唱えても本当にそれをやる人はいない。私が1番よく知っている。」「家族一同が不幸となり社会の片隅で小さくなって生活していかなければならない」等々と書いていた。

折りしも、この文書発覚直後、同様に差別によって交際を断ち切られた生野高校の女子生徒が奈良で自殺するという痛ましい事件も起こった。

こうした悲劇がたて続き起こり、兵庫県但馬地方の被差別部落の人々は、青年部を中心に、いっきに糾弾闘争に立ち上がることになる。

部落解放同盟南但馬支部連絡協議会は、前年の7月に結成されたばかりであった。「黙っていては、差別に殺される」――そんな思いで、眠らされていた人たちが立ち上がったのである。こうした動きは、高校生や中学生にも波及し、各学校で部落解放研究会が結成されていくこととなった。

こうした動きの中、差別文書の対象とされた女子生徒自身も、勇気を振り絞って立ち上がり、八鹿高校の卒業式で、真の同和教育の推進を涙ながらに訴えたが、教師たちの反応は冷ややかとしかいいようのないものであった……。

そのことを振り返り、彼女の妹は次のように記している。

「私の姉も八高の卒業生である。そして山田久差別文章事件の当人なのだ。そして、その相手も八高生である。姉は3年の卒業間近になってから解放同盟の運動をしり、今まで逃げ通していたこの問題にやはりやらなければならないと思い、部落民宣言をし同和教育をもっときちんとやってほしいと泣きながらうったえた。

しかし、教師はそんな苦しい中で、うったえた姉のことも考えず、何もしようとも考えようともしなかった。生徒も何も聞かなかったように、そして仲のよかった友だちも姉と話しもしないようになったのであった。姉は結局、みじめさをより深めただけであった。」(神戸地裁への上申書より)

 同和教育の時間にニヤニヤ笑いの教師

彼女が訴えた八鹿高校の同和教育とはどのようなものであったのか。生徒たちは次のように語る。

「私たち部落の生徒はいつもビクビクしています。特に同和教育の時にはどうにもならないくらいなのです。まして、部落の実体を知らずして、たまに本を読み通すだけの同和教育をやられていては、ただみじめになるほかないのです。マンガを読む、他の話をする、エスケープする、同和教育中、なぜこんな生徒がいるのでしょう。

そして、同和教育をやっていながら、なぜ私たちがこんな人目を気にし、顔すら上へあげられない苦しいめをしなければならないのでしょう。同和教育は何のためにやるのでしょうか。また先生たちは一般差別と部落差別をごっちゃまぜにし、結局本質もとらえられず、予断と偏見を大きく広げているにすぎない教育なのです。」(神戸地裁への上申書より)

残念ながらこの現実は、事件後も変わらない、いやむしろもっと悪化する。

「腹が立つようなおかしい発言があっても、言おうか言わないかとまよい、胸がドンドン打ってしかたないのです。(略)どんな差別もいっしょにし、ただ同情じみた、けれど同情なりのあったかさもないのです。私が先生のおかしい点を指摘すると、先生は笑ったり、またかというような顔をしたり、そのうえ私が話をしている途中でもプリントを配ったりして聞こうとしないのです。

私が「先生、話を聞いて下さい!」と大きな声で言うと、プリントを配りおえてから「どうぞ」といかにもバカにした態度で話を続けろというのです。カーときて「教室をとびだしたろか」と思ったけども、胸の中で熱湯がにえたぎっている中で話を続けました。しかし、先生は聞く態度ではなく、生徒と共に笑うのです。

またこの時間に友情のこととかラムネ屋の問題をだすので「何が関係あるんや!」と言ったら「何が関係ないのや」と言うのです。

部落問題にふれず、差別はみんないっしょだからといって、他の問題を出してくるのです。

だから私が「同じ身体障害者どうしでも、部落の身体障害者の人は部落じゃないその人たちに差別されるという現実が京都の施設でもある。もし一般差別も部落差別もいっしょなら、なんでこんな差別があるんや、明らかに矛盾があるやないか!」といっても「そう言われても私の気持ちは変わりません。」こう答えるのです。

これで教育者と言えるのでしょうか。部落にも入ったことがなく、何の勉強もしていない、まして共産党の出す『赤旗』に書いてあるようなことと同じようなことを言っているような教師に対しなぜ黙っていることができるのか!」(前掲)

 

 

◆「人生でこんなに早く人の冷たさを知りたくはなかった・・・」

こうした学校の中で、生徒たち21人は、1974年5月、部落解放研究会を結成しようとする。しかし、教師たちはそれを認めようとない。以来半年間、生徒たちといっさい話し合おうともしない状況が続いた中、さまざまな努力によって11月、ようやく2人の教師との話し合いが約束されたもの、それさえも他の教師たちの圧力によって反故にされた。

ここにいたって、解放研生徒たちは、話し合いを求め、職員室前の廊下に座り込みを始めた。それが、11月18日のことであった。

こうした生徒たちの行動に、保護者や被差別部落の人々を中心に、多くの人々が教師集団に対する抗議の行動に立ち上がる。集会やデモが行われ、但馬地域は騒然とした状況になる。

しかし、教師たちは、こうした人々の願いを受け止めようとしないばかりか、さらに態度を硬化させ、集団で登下校し、20日からは城崎町の旅館に集団宿泊までするようになる。

「教師と生徒の話し合いを拒否する学校があるのだろうか。私たちはこれで生徒として認められているのだろうか。私たち解放研は八高職員が差別教師であることを新たに自覚し、座り込みに至った。

しかし私はこの時水平社宣言を前にして、人の世の冷たさがどんなに冷たいものであるか初めてわかったような気がする。座り込みをしている私たちの前を平然と通る教師、そしておもしろそうにジロジロ見る生徒。私は人生の冷たさ汚なさをこんなに早くは知りたくなかった。しかし、暖かさといたわりを少し感じたような気がする。私たちは3日間の座り込み闘争をすぎあくまで知らん顔をする教師に我慢できず断食に入ることにした。」(前掲の生徒手記より)

これが、11月22日当日までの経緯である。

 

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◆仕組まれた事件、赤旗記者・病院は事前に手配されていた!

「生徒が前日の夕方から断食をして座り込んでいる」「保護者が必死になって話し合ってくれと訴えている」しかし、それをふりほどき、隊列を組んで学校を出て行く。

ここまでなぜに教師たちは頑なだったのか。部落解放同盟のメンバー13人に対して有罪を下した判決でさえ、あえて次のように述べている。

(解放研設置を認めなかった事実をさして)「事が自校の生徒に関する問題であるだけに、教諭らの態度はやはり生徒を抜きにし、政治的観点にとらわれすぎた硬直した態度であるとの非難は免れがたいと考える。」

「解放研生徒のことも顧みず集団で下校するということはいかにも性急で思い切った態度であり、もとより他にとるべき方法がなかったとはいいがたい。教諭らが真にハンガーストライキをしている生徒やその父兄の心情を思うならば、右のような態度は教育者としてとり得なかった筈である。」

「教育者として適切を欠くものがあり、少なくとも、日頃部落差別に苦しんでいる被告人ら解放同盟員にとって、差別的・党派的なものと見られる余地があるといわなければならない。してみれば、これらの者が激しい怒りを持ち、糾弾を必要とすると考えたのも無理からぬところがあり、本件は動機・目的において一応首肯できなくはない。

このように教師の行動を批判した判決は、その背後には、部落解放同盟日本共産党との対立がある」と明確に述べている。

つまり、判決でさえ明言しなければならないほど、教師たちの行動は、日本共産党の全面的で露骨な指導のもとに進められた。

「解放研は解放同盟の尖兵である」と批判する彼ら自身が、「日本共産党の紛れもない尖兵」であり、彼らがいうところの「教育への介入や批判」とは、「日本共産党の校内支配への批判と反発」に他ならなかった。

だからこそ、赤旗の記者、病院の手配などなどの周到な準備を整えた上で、彼らは、トラブルが起こることを想定して、あえて生徒と保護者を振りきり、その目の前を隊列を組んで出て行くという挑発行為を行ったとしかいえない。

しかし、ハンストしている我が子を見捨てた教師、いくら訴えても応えないどころかあざ笑う教師、その怒りを思うとき、あえて挑発であり罠だとわかっていたとしても、こうした行動をとらざるを得なかったことを考えてみることが必要である。

当時のリーダーは、振り返って、私に次のようなメッセージを届けてくれた。

「体に傷はつけず、毒ガスで殺されようとする人を、部落民が有形力(暴力)によって壁を打ち壊し、腕をつかんで助け出しても、共産党は『赤旗』で暴力と書くだろう。今から29年前の11月22日、南但馬の部落解放同盟は予測された苦難を承知した上で、断固たる決意のもとに、八鹿高校差別教育糾弾闘争を闘ったのです。」

 

◆生徒を置き去りにしての政治利用

そして、共産党は「八鹿高校事件」は、「部落解放同盟=暴力集団」として描くためのキャンペーンに最大限利用していく。

たとえば事件直後の八鹿町、養父町、山東町では、同和行政批判を公約とした共産党支持候補が町長として当選した。中でも、朝来町では兵教組の支部長として大量の差別ビラをばらまいた橋本哲朗自身が共産党から立候補し町長に当選した。但し、後年、彼は不正支出と偽証で辞任に追い込まれたことも明記しておきたい。

しかし、それだけに留まらない。なんとこの事件は、同和地区の所在や地名を明記した「部落地名総鑑」を販売するためにも利用されたのである。さらには後述する広島県での平和教育同和教育を押さえ込み、「日の丸・君が代」を強制する際にも利用されていく。

そしてそれは今回の『真相』にも通底しているのである。

今回の『真相1』の中で、「凶暴化する『人権』」として、この事件を取り上げたのは、寺園敦史氏である。彼は、この項の冒頭で紹介したように、「集団リンチ事件」として描き、解放同盟を擁護する大学教員に対して「地区住民を対等な立場の人間として見ているとはとうてい感じられなかった」と述べ、さらには、この事件が「周囲に『同和』『部落』は怖いという、とてつもないイメージを形成させていったのである」と述べる。

『真相』筆者である寺園氏に訊ねたいのは以下のことである。

はたして、差別の現実を訴え、座り込みからハンストまで行った生徒たちを対等な人間として見なかったのは誰か。すがりついて、我が子を見捨てないでと訴えた母親をふりほどき突き放したのは誰か。そして、「逆さづり、丸裸」といったありもしないことまで、書き立てて、「暴力集団」という「とてつもないイメージ」として描き出したのは誰か。

寺園氏は、これまで当事者に直接、取材することや、立場の異なる人へも取材するといったいわば「中立」の立場として、一連の記事を書くというスタンスを標榜されてきた。しかし、この当然の姿勢さえ、ここでは全く見られない。引用されているのは、「全解連」の見解だけ。これで果たして報道と言えるのだろうか。

 

◆路線対立へのスリ替え―傷ついたのは誰か

そして、一般のマスコミはこの事件についてどのような態度をとったのか。

ある意味、この事件は「部落解放同盟日本共産党との対立」としてとらえられたからこそ、多くのマスコミは、路線対立の中での衝突やトラブルは、多くの労働運動や住民運動の中でも起こってきた問題であるとして、あえて取り上げることもしなかった。

しかし、それもまた間違いである。なぜなら、この事件の中で何よりも傷つき、悲しみ、悔しい思いをしたのは、当事者である生徒であった。このことこそ忘れてはならなかったはずだ。

教育現場で起こったこの事件の中心にいたのは、子どもたちであった。教師たちは彼らに何をしたのか、何を残すことになったのか、そしていまなお、このような形で事件を取り上げることは、彼らに何をすることになるのか。いま改めて、「八鹿高校」という言葉を持ち出すのなら、これを「暴力事件」ととらえる勢力はもちろん、私を含めて「差別教育事件」ととらえる側も、このことこそ考えなければならない。

 

◆「機動隊を導入して解放研部室をつぶせ!」

当時、但馬地域の7つの普通科高校は3ランクに並べられ、その下に実業高校、そして5番目にその他の職業科と明確に高校順位が決められていた。それが『兵庫方式』とよばれた進学指導であり、子どもたちは遅くとも中学3年生の1学期には、成績順に進学先が割り振られるという状況におかれていた。

そうした中で、八鹿高校普通科の生徒たちは、大学進学をめざすエリートコースに位置づいていたのである。一方、同じ学校にありながら、最下位に位置づけられた職業科の生徒たち。「阿呆たれ」「土方」という言葉が教師自身からも発せられる学校の現実の中で、前述の同和教育が行われていく。そこに起こった差別文書の発覚、差別による自死……。

翻って、「自由化、多様化、個性化」として「特色ある学校」いう言葉のもとでの、止めどなくランク付けが行われている今日の学校現場の状況。教育への競争原理の導入は、序列と差別をさらに拡大させている。

いま、そうした状況にある中でこそ、解放研を結成し、真の同和教育を求めた生徒たちの思いを今一度、受け止めたいと私は思う。

あの事件の後、親族が裁判の被告として法廷に立たされた中でも、八鹿高校部落解放研究会の子どもたちは、機関紙『自信と展望』を発行し続け、生徒集会、ホームルームなどを通じて、真の同和教育を訴え続けた。それに対する教師の答えとは、「機動隊を導入してでも解放研部室を撤去せよ」という職員会議での発言に象徴される対応であった。子どもたちは、卒業に当たってこう述べている。

【私達は八鹿高校の同和教育を不満として訴え、ついに断食をもって告発した先輩の闘いをすばらしいと思います。私達は、兄弟父母が生徒と学校を捨てて逃げ出した教師を連れもどし、そのあやまちを糾弾したことを誇りに思います。

私達が今日まで教師の弾圧に屈せずにいたのは、差別を許さなかったこの闘いの歴史にささえられたからです。今後進学、就職と私達の進路はわかれていきますが、八鹿高校の苦しかった毎日とそれを乗り越えてきたことを思えばどんな困難にもうち勝っていけると思います。

私達は八鹿高校の教師が部落解放に向かって学びたいと願う部落の生徒の学ぶ権利を抑圧している事実を身をもって体験し、抑圧された中では充分な学習権は保障されないこと、すなわち差別教育であることを知りました。

49年11月22日エッタ帰れ、四つ帰れの大合唱【注-筆者】を許さなかった先輩たち、私達を支援してくれた生徒諸君ありがとう。

最後に敵意と差別の学校の中で部落民である私達に学ぶ場所を提供してくれた部室、ありがとう。八鹿高校の校舎全体が部落民を暖かく迎えてくれるその日まで闘いぬくことを約束してお別れします。1979年2月25日 八鹿高校部落解放研究会 卒業生一同
兵庫県立八鹿高等学校部落解放研究会発行『自信と展望』号外1978.2.24より)

 

【注】11月22日、教師を説得する保護者に向かって、校舎の窓から生徒たちが発した言葉である。しかもこの生徒たちは、八鹿高校の教師たちが、民主的に部落問題を考えるサークルとして指導してきたとして、この存在を理由に解放研の設置を認めなかった「部落問題研究会(部落研)」の部員だった。「八鹿高校事件」なるものの真実とは、ここにこそあるのだ。

 

◆この本はどんな思いで読まれたのだろうか

冒頭で述べたように、この本は、どのような人にどのような思いを持って読まれたのだろうかという疑問を私は抱いている。確かに、この本に書かれたようないい加減な同和教育があったことも事実であろう。あるいは、教条的に差別をとらえて、間違った教育実践が行われたこともあっただろう。

また、そこには、部落解放同盟支部長に媚びを売り、出世していった教師がいたことも事実であるし、そうした教師たちを利用して労務管理や、人事操作を繰り広げていた教育行政があったことも事実であろう。

しかし、そうした教師たちばかりではない。部落の子どもたちの教育を保障していくために、手弁当で必死になって取り組んでいた矢田中学校の教師たち、共産党支配がその後も続く八鹿高校教師集団の中で解放研の子どもたちの思いに耳を傾け、そばに居続けようとした教師たち、彼らは、ただ部落解放同盟が恐ろしくて、あるいは金銭や出世といった瑣末な利害で動いたのでは断じてない。『真相』は、こうした教師たちを愚弄するものに他ならない。

毎年、開催される全国人権・同和教育研究大会は、既に55回を数え、そこには、2万を越える人々が結集する。もちろん、出張旅費と手当をもらい、会議もそこそこに、近隣の温泉へと向かう教師や行政職員もいる。

しかし、自費を絞り出して、10時間近くも自らの車を飛ばして、駆けつける教員がいる。あるいは、1人分の旅費を3人で分けて、知人の家に泊めてもらって参加する教員がいる。彼ら彼女らは、子どもたちとの出会いから、部落の人々との出会いの中から、目覚めたこと、心ときめいたことを語りたい、聞いてほしい、そして応えてほしいという思いから参加する。

「解放同盟=暴力集団」として、『真相』は描き出そうとするが、こうした同和教育に真摯に取り組んでいる教師たちにとっては、部落解放同盟とは、1人ひとりの子どもの保護者であり、子ども会をいっしょに進める青年であり、識字学級で学ぶ人たちであり、「先生、遅までごくろうさんやな。ちょっと食べていきな」と声をかけ、「わしでよかったら、子どもらに太鼓のたたき方おしえたるで…」と語りかける人々にほかならない。部落解放同盟とは、日々、差別と向き合っているそれぞれの人たちであることを、こうした教師たちは知っている。

そこには、ただ「勤務時間は守られていますか」と問いかける教師や、ハンストをしてまで訴えている生徒の頭をまたいで下校する教師、差別発言を指摘され抗議されると自分の過ちも認めず、共産党の庇護のもとへと逃げ込む教師など一切いない(断っておくが、投げかけられた提起に反論することを否定しているのではない、要は向き合おうとしたのかどうかである)。『真相』編著者は、同和教育に取り組んできた教員たちを一度なりと取材してみれば良いだろう。

 

スケープゴートにされる人々は誰か

『真相』が果たしている犯罪的な役割は、ただ単に過去の事実や同和教育実践を歪曲して伝えているだけに留まってはいない。前述したように、部落解放同盟を暴力集団として非難し、その一方で差別を指摘され批判された教師を被害者として全面的に擁護する姿勢は、教師の権威を振りかざし、批判を受け付けない、そうした主張に貫かれている。はたして、それでよいのだろうか。

構造改革」の名の下、弱肉強食の競争原理が正当化され、それが「教育改革」の名のもと学校現場にまで及んでいる。保護者の生活実態がそのまま子どもたちの教育達成を左右し、学力の階層間格差が大きく拡大している。

公立学校さえ多様化のもとランク付けされ、「有名進学校」をめざして塾に家庭教師に、あるいは「個性伸張」をめざしてスポーツチームや音楽レッスンに……子どもの将来を保障するためには、金が必要であることをすでに多くの人々は見抜いている。

しかし、経済大国と言われながら、年間3万人を越える「自殺者」、その半数は「生活苦」が理由だとされる。つまり、1日90人が自ら命を絶ち、その内50人近くが生活苦だというのである。

もちろん、その中には、子どもたちの親もたくさんいる。既に、就学援助を受けなければ学校へ通えない子どもたちが、10人に1人。貯蓄がない、いやできない世帯が2割を越える。

高度経済成長のもとで、「みんなが幸せになれる」ことをめざした社会は、現実にある経済格差を「強者と弱者」としてとらえた。豊かな生活ができない「弱者」を生み出したのは、社会が不公平だから「結果の平等」をめざして福祉と教育を充実することが当然とされた。

日本列島改造論」が「都市だけが豊かでいいのか、地方は弱者だ。弱者にも手厚い行政を」として是認されてきたのもそうだ。いわば、同和行政や同和対策の特別措置もこの流れの中で行われたに過ぎない。

しかし、90年代以降、経済が停滞し構造不況が進む中、すべての人に保障できるほど予算はない、自由な競争こそ社会を発展させるのだから、機会は与えるが結果は自己責任、成功した者は「勝者」だし、機会をいかせなかったのは「敗者」とされる。そんな時代へと変化していった。

「住宅の改修もした、道路も整備した、環境改善はやりました」「加えて啓発の学習会も行った」しかし、「仕事がない、進学できない、それはあなた個人の問題、個人の責任でしょう」として、同和対策事業は打ち切られた。いくら差別の現実を語っても、「それは、あなたの考え」として一切、耳を傾けようとしなかった八鹿高校の教師の姿が浮かんでくる。

そしていま、親子3代政治家、官僚、外交官という「強者」が世襲され、固定化されているとき、「強者」はもともと優れた「優者」であり、対して「弱者」は、そもそも機会をいかせない「劣者」なのだ、という理屈付けが進んでいる。

その時、いままで「弱者」であると思ってきた人たち、女性であり、被差別部落の人々であり、在日朝鮮人であり…、そうした人たちは「実はこんなにひどい劣者だったのだ」といわんがためのキャンペーンが、『北朝鮮利権の真相』『まれに見るバカ女』と続く、まさにこの一連の『真相』本に他ならないのではないだろうか。

 

◆教師という職業―いま改めて同和教育とは

そして、こうした人たちを劣情のスケープゴートにしながら、階層分化の合理化と戦争ができる国づくりへと進んでいる。前者は、「できない子には実直な精神を」として、国定道徳教科書「心のノート」の制定とこれに基づく指導の強化による「愛国心=現行政治体制に従うこと」の強制などに顕著に現れ、後者は、「拉致問題」を政治的に利用し、「人権学習」の名の下で、核武装肯定論者や過去の侵略の事実を認めない人々の手に子どもの学習がゆだねられことにまで至り、その先には教育基本法憲法の改悪が狙われていることは言うまでもない。

2003年7月、「イラク支援法」が成立した。いま教師たちは、「教え子を再び戦場に送ること」になった。イラクに派遣される自衛隊員の多くは、政治家や官僚や社長の子どもではない。根っからの右翼思想の持ち主でもない。

前線に立つのは、防衛大学出身のエリート隊員や官僚隊員でもない。街で「兄ちゃん、ええ身体してるな」と声かけられたある意味、学校教育の中でしっかりと進路保障されなかった子どもたちも、そこには、いるのである。

一方、その教師たちもまた、「教育改革」の名の下に、一つひとつを吟味する時間も与えられず、競わされ追い立てられて疲れ切っている。子どもたちと校庭を駆け回り、ドッジボールをし、歌を歌い、笑いあう、そんな風景がいつしか学校で見かけなくなってきている。

もっともっと子どもたちや保護者と関わり、その生活を知り、生い立ちを知り、思いを知って、学力保障に取り組みたいと願いながらも、そうできなくなってきていると語る教師たち。

その一方で、とにかく楽したい、そのためにはやらなくていいものはやりたくないと授業の創意工夫などしたくないから、「基礎学力の保障」という言葉を悪用して、機械的な百マス計算やドリル学習に走る教師。

その時、はっきりしていることは、前者の教師は、これまで同和教育を中心として困難な立場におかれた子どもたちの学力保障に真剣に取り組んできた教師であり、後者に見られるのは、自分たちの権利だけを振りかざしてきた矢田や八鹿に共通する教師たちである。

いま改めて、矢田教育差別事件、八鹿高校差別教育事件を学び直すとするなら、子どもや保護者の思いを受け止めることができなかった教師たちは、醜い姿をさらすことになり、そして結局、自分自身の権利を守ることさえできなくったという悲しい結末である。子どもたちの信頼と保護者の信頼をなくして教育は成り立たないし、自分たちの権利も勤務の改善もあり得ない。

『真相』編著者の方々よ、正義の味方を気取るのはいい。しかし、あなた方の論理は、いったい誰のどのような利害や意図にとって好都合なのか。

部落解放運動や同和教育実践にも、数多くの誤りがあったことを否定はしない。しかしそれは、本来、同志的立場から相互批判の原則のもとで克服されるべき、また克服できる問題であって、敵対関係に転化すべき問題ではない。

にもかかわらず、あなた方が部落解放運動を、そして同和教育の実践を矮小化して口汚い攻撃の対象とするとき、それをほくそ笑みながら見ている勢力がいるのではないだろうか。あなた方は、そうした勢力に利用されているのか、はたまた、あなた方自身もまた、そうした勢力の紛れもない一員なのだろうか。

『「同和利権の真相」の深層』解放出版社2004より