ネット上では「糾弾=暴力リンチ=八鹿高校事件」の図式
部落問題をめぐる議論で必ず出てくる「糾弾」。そして、それを否定的に取り上げる象徴的な事件として、この「八鹿高校差別事件」がある。
先日の部落差別解消法案の参議院法務委員会の質疑でも、共産党議員は40年以上前の八鹿高校差別事件のことを取り上げて、ことさら「解放同盟=糾弾=暴力集団」と連呼し続けた。
八鹿高校差別事件(1974年)の時に生まれてない40~50代以下の若い人たちは、みんなネット検索で、wikiを見て「八鹿高校事件ってなに?」「解放同盟?糾弾って?」と情報収集。
「わぁー、こりゃひどいわぁ。解放同盟怖い。やっぱり部落は怖いねぇ。」「差別されて当然」「反省してないんでしょ?部落差別があるのは、差別もないにに、差別と騒ぐ『解同』があるからや」「私は部落差別はしていない。『解同』差別をしているだけ。そんな部落の人たちと結婚しないは当然。そんな地域に住みたくない」「部落って怖いね。やばいわ」とのコメントが爆発的にネット上に拡散していった。
こうして、寝た子が『気分悪く』起こされている。
ネット上では共産党の主張ばかり(デマもある)
八鹿高校差別事件(兵庫県)については、ネット上では被差別当事者の視点で書かれた情報がほとんどない。共産党系の差別的な主張がほとんどで、両論併記にすらなっていない。
ウィキペディアで「八鹿高校事件」を調べると、共産党系の主張で書かれて偏った記事。しかも、その量が多くて、みんな全文は読まない。ただ、そこに写る、ひどい写真ばかりの印象が残る、というのが現状。
その印象・情報がまるで事実のようになり、部落=解放同盟=暴力集団=利権集団=差別されても仕方ない、という論理で、部落問題を知らない若い人たちに悪影響を及ぼしている。
八鹿高校事件を知らない方は、少し長いでずが、ぜひ読んで下さい。ボクの友人が分かりやすく「まとめ」てくれました。
【八鹿高校事件について本読んでまとめてみた】
よく部落問題の話になると「解放同盟は暴力集団だ!八鹿高校事件で多くの人が暴力にあったやんか!」的な話を聞く。
共産党側の主張
詳細はwikiをみてください。八鹿高校事件 - Wikipedia
簡単に言えば、「八鹿高校の教師が解放同盟にリンチされて半殺しにあったよ。だから、解放同盟は暴力集団なんや。」って事件。
八鹿高校事件を簡単にいうと
学校で同和教育がまともに行われておらず、学校内でも部落差別により交際を破局されられた生徒もいたり、近くの高校の生徒が部落差別で自殺する中、部落出身の生徒を中心に部落解放研究会を結成しようとする。
しかし、教師は認めず、生徒たちが学校でハンガーストライキをするが教師は無視。それを知った保護者や部落解放同盟が抗議するが教師は無視。そんな教師たちにムカついて殴った人もいた。共産党はそれを理由に「解放同盟 = 暴力集団」というキャンペーンをはった。
つまり、差別側に抗議してるのに共産党は差別者を擁護した事件。
当時の八鹿高校の同和教育の状況
一言で言えば、まともに同和教育に取り組んでいなかった。
・生徒が部落民宣言をして同和教育をしっかりやってほしいと先生にいっても何もしようとしなかった。逆に、その生徒と仲の良かった友だちたちが話もしないようになっていった。
・同和教育の授業中は、漫画を読んだり、私語をしたり、授業にでない生徒たちも多く、部落出身の生徒は人目を気にしながら授業を受けていた。
・先生のおかしい点を指摘しても、先生は笑ったり、またかという顔をしたり、生徒が話をしているのにもかかわらず、途中でプリントを配ったりして話を聞こうとしない。
事件の発端
1974年1月、兵庫県幹部職員の差別文書事件が発覚する。
当時、3年生の女子生徒と幹部の息子が付き合っていて、女子生徒が被差別部落出身だとわかる。
それを理由に息子に交際をやめるように「同和行政を口に唱えても本当にそれをやる人はいない。私が1番よく知っている。」「家族一同が不幸となり社会の片隅で小さくなって生活していかなければならない」などと書いた。
※幹部職員は、同和行政を推進する立場にいた。
この文書が見つかった後に、部落差別によって交際を断ち切られた生野高校(八鹿の隣町)の女子生徒が奈良県で自殺。
こういう事件が連続で起こったから、兵庫県但馬地方の部落民(青年部中心)が糾弾闘争に立ち上がり、この動きが当時の高校生や中学生にも影響を与え、各学校で部落解放研究会(解放研)ができていく。
解放研結成への動き
学校がまともに同和教育に取り組んでくれないので、生徒達21人が1974年5月に解放研をつくろうとする。しかし、教師たちは認めない。
約半年間、教師たちは生徒たちと話し合おうともしない。1974年11月になり、2人の教師との話し合いが約束されるが、他の教師にもみ消される。
そのため、解放研の生徒は話し合いを求めて職員室の廊下に座り込みを始めた(11月18日)。
これを知った保護者や被差別部落の人たちが教師に抗議するようになる。
しかし、教師たちは態度を硬化させ集団登下校するようになり、11月20日から城崎の旅館に集団宿泊するようになる。
※なぜ解放研結成がみとめられなかったのか
すでに部落問題研究会(部落研)というものがつくられていたため。 教師たちは部落研を「民主的に部落問題を考えるサークルとして指導してきた」としている。
しかし、この部落研は1974年11月22日に教師を説得する保護者に校舎の窓から「エッタ帰れ」「四つ帰れ」とシュプレヒコールをしている。
部落の生徒ら21名がハンスト(1974年11月21日)
・11月21日
教師達は日本高等学校教職員組合(高教組)が手配した城崎の旅館で集団宿泊していた。
職員室前で生徒たち21人解放研がハンストに入る(何も食べずに泊まり込む)。
※ちなみに
八鹿高校のある兵庫県養父市八鹿町は兵庫県の北部(日本海側)のため冬は寒い。
・11月22日
教師達約60人は登校してすぐ年休届けを提出。
各教室で生徒に「授業ない」って言って、三列縦隊スクラムを組んで集団下校をする。
前日から職員室前でハンストに入っている生徒たちをまたぐようにして下校(翌日からは連休)。
こうした教師たちの行動を知った解放同盟の地元支部長がかけつけ、教師の列の前んい両手を広げて立ちはだかるが、引きずられることに。
校長、教育委員会、育友会関係者なども教師たちを制止しようとするが、教師たちはとまらない。
最終的に、連絡を受けた解放同盟員に囲まれて、教師たちはスクラムを組んでその場に座り込む(解放同盟員の中心にいたのはハンスト中の生徒の保護者)。
このとき、解放同盟員が教師をごぼう抜きにして47人を学校に連れ戻す(13人は逃げ出す)。
保護者が教師への抗議と説得(糾弾)
学校に連れもどした教師に解放同盟側が抗議と説得をする(いわゆる糾弾をした)。解放同盟員は教師に自分の生い立ちもかたって説得するが、話を聞こうとしない教師たちもいた。
そんな教師の態度に我慢できなくなった一部の人が教師を暴行した。でも、解放同盟婦人部がすぐに止めに入った。
このことを当時の赤旗は「血ぬられた高校体育館」「水をかけられてずぶぬれになった男女の教師をむりやり裸に」「バスケットボールのボードの支柱にぶら下がったゴムチューブ、ここで逆さづりの拷問?」って報道したが、どれも事実ではなかった。つまりデマを報道し、デマに対する訂正記事もいまだに出していない。
また、このとき共産党は赤旗の記者を八鹿高校に常駐させたり、あらかじめ病院の手配していた。つまり、トラブルが起こることを想定して、生徒と保護者をふりきって、生徒や保護者の前を隊列を組んで下校するという挑発をおこなってた。
事件後
共産党は八鹿高校事件をつかい「解放同盟は暴力集団」という大キャンペーンをはっていく。また、この事件は部落地名総鑑を販売するためにも利用されたらしい。
思ったこと
たしかに殴ったのは悪いしそのことが裁判で裁かれるのは仕方ないけど、そもそも教師側が差別してきたのに対し抗議してるのに、共産党側は教師側の肩を思って、挙げ句の果てには抗議側を暴力集団っていうレッテルを貼るのおかしいやろと思った。
よく、八鹿高校事件だして「解放同盟 = 暴力集団」っていうけど、それ言う人たち差別される当事者のことは何も考えてないんやなと思った。
※参考文献
『同和利権の真相」の深層ー何がリアルや!』(解放出版社)